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昨日、息子たちが昔読んで今後は読むことは無いだろうという英文の本を処分しようと思い立って屋根裏部屋にあがり、意外な本を見つけた。エリザベス・キュブラー・ロスの『「死ぬ瞬間」をめぐる質疑応答』である。末期患者に対するケアをどうすべきかから始まって死の受容段階説を唱えた彼女の自叙伝を持っているがこれは私の買った本ではない。 香港駐在の時に環境活動を考える会を通じて知り合った友人はその一人息子がたまたまうちの息子たちと同じ学校で次男より一歳年下だった。小学校に入ったばかりの年頃の男の子達と共にいろいろな空き地を見つけては遊ばせ、ハイキングコースを一緒に回った。私が上海に移り、その後香港人と離婚した彼女は一人で息子を育てていた。私もそれから転々と赴任地を変わったものの彼女との連絡は途絶えることがなかった。 その友人が2006年の2月初めに私に電話をくれたが私は不在。留守番電話にはやや硬い声で言葉少なに「又御電話します」とだけ残されていた。折り返しかけた電話を取ってくれたのは息子さんで声変わりが始まっていたため誰と話をしているかわからず一瞬戸惑った。その彼から友人が癌の嫡出手術をしたと聞いて今度は言葉を失う。 しつこい腹痛のために病院を訪れた彼女は第四期の卵巣癌が大腸、リンパ節、肝臓に転移していると診断され、即日摘出手術をすることになったのだった。 その後化学療法を受けつつ仕事をこなしていた彼女は、化学療法のあまりの副作用に考えるところがあり、仕事を辞め治療に専念していた。 折に触れ電話で話をしメールでやりとりはしているものの、彼女とは10年ほど会っていなかった。だが、去年の11月1日に日本で落ち合うことができた。私は帰省中、彼女も定員がいっぱいで参加できないはずだった癌治療のセミナーに偶然、空きが出たため日本に帰ってきたからである。10年ぶりに会ったというのに子供が傍にいなかったせいだろうか、そんなに過ぎた歳のことを考えなかった。ただ動くのがしんどいので待ち合わせの横浜駅に一番近いところで食事を取ることにしてほしいというお願いに,確かに彼女は病気を抱えて生きているのだと気づかざるを得なかった。 その彼女が12月7日に胸に水が溜まるので入院した。肺をからっぽにした後、水がたまらないように肺に膜を作るようにしつつ利尿剤を使う治療をしていた。手足が腫れてはいるが痛みは伴わないという状態から、胸に水が溜まる状態が続きだした。私に出来ることは電話で彼女がどういう具合なのかを聞くことだけだった。最後に電話で話ができたのが今年の旧正月(1月26日)の数日前だった。「ごめんなさい、もう苦しくて御話できないの。」 それから電話を掛け続けていたのだが留守番電話のメッセージが流れるばかり。そういえばクリスマスの時も家に帰ることができたのだから旧正月ともなれば当然家に帰っているはず、と自分に言い聞かせるのだがぼんやりとした不安が自分の心の底に流れているのを無視しようとしている。それではと家のほうにも電話するのだが電話を取る人もいない。 今日も留守番電話にメッセージを残すが、自分の残すメッセージもだんだん言葉少なになる。今日は意を決してまた家のほうに電話すると、出たのは息子さんだった。まずは新年の挨拶をしたところ「あ、そうですね、あけましておめでとうですね。実は母は1月24日に亡くなりました。誰に連絡していいのやらわからなくて。。。ごめんなさい。」 ゆっくりと自分のみぞおちに渾身の一発が決まった。泣きたい自分とその一方で自分の母親が闘病の結果無くなったことを淡々と伝え、その悲報を伝えられなかったことを謝まる息子さんと今話をしている自分がいる。彼と語るとしたら過去ではなくて未来なのだとみぞおちの一発を押し返して話を続ける。 彼は今年大学受験である。カナダの大学でジャーナリズムを勉強したいという希望があることを彼女から聞いていた。今年の秋には彼の大学の入学式にはカナダに行けるといいよねとも話していた。今は一人で食事や洗濯をしながら暮らしているという彼にそれだったら気候も違うところで勉強したとしても大丈夫だと彼に伝える。掛け値なしの私の賛辞である。ずっと香港で育ち現地の英語の学校に通うこの子と私は日本語で話をしている。 彼との電話を終えて、すぐに彼女のためにずっと祈ってくれていた友人のAさんに訃報を伝えるべく電話を掛けた。どこからどう話をしていいものやら、初めの一句がなかなか出てこない。友人は最後にはとても苦しそうだった肉体を離れることができたのであるから、亡くなってしまったということを殊更に嘆くことはしたくないのにという繰言だけを聞かせているのが自分でもわかっていながら、しかしそれを止められない。 その夜はJapan Foundationでのセミナーがあり、Tさん宅に御泊りの予定だったので1977年に出版され黄ばんでひなびた『「死ぬ瞬間」をめぐる質疑応答』をバックパックに入れて自転車でTさん宅へ。まだまだここの冬の寒さは続いているのだが日は確実に長くなっている。数え切れないほどのタイルのコレクションと骨董品に囲まれた部屋は天井が明かり取りのためにガラスばりになっている。機械的に入れたコーヒーのマグカップをコースター代わりのタイルの上に置き、持っていった本をその部屋の真ん中の自然の光の下で日がかげるまで読んだ。
by yy-mari
| 2009-02-13 07:39
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